青空文庫

「夏目漱石」の作品

夏目漱石

なつめそうせき

生年:1867-02-09没年:1916-12-09
作品数:113

明治末期〜大正初期

明治文学大正文学英文学言文一致小説家

夏目漱石(1867年2月9日-1916年12月9日)は、明治末期から大正初期にかけて活躍した日本の小説家・英文学者である。東京帝国大学英文科を卒業後、教師として勤務し、1900年に英国留学へ赴く。帰国後は講師を務めるも、作家としてデビューし、『吾輩は猫である』などの代表作を発表した。彼は言文一致の現代書き言葉を確立し、日本近代文学の礎を築いた人物とされる。

従軍行

じゅうぐんこう

初出:「帝國文學」 1904(明治37)年5月10日

2

幻影の盾

まぼろしのたて

初出:「ホトトギス」1905(明治38)年4月

66
2019/10/27

19双之川喜41さんの感想

 翻案しようがないのは 古代騎士の 騎馬▫武具の描写が 剰りにも専門的で 難解だからであろう。 筋立ては 好いた女は敵方にという 良くある運びなのでわかりやすいと感じた。

吾輩は猫である

わがはいはねこである

初出:「ホトトギス」1905(明治38)年1月、2月、4月、6月、7月、10月、1906(明治39)年1月、3月、4月、8月

916
2025/06/19

85b04dfb2804さんの感想

ねこ好ずきにおすすめ 小説を読ぶことが好きな人おすすめ ユーモアが好きな人おすすめ ワクワクしたい人におすすめ 小説を読むのに挑戦しようと思う人もおすすめ 面白い 楽しい ユーモア

猫の広告文

ねこのこうこくぶん

初出:「東京朝日新聞」1905(明治38)年11月15日

1
2020/01/09

6dd04db5b512さんの感想

本編読了済みですが、この予告だけで笑いました。猫にまでいじられる鼻…

二百十日

にひゃくとおか

初出:「中央公論」1906(明治39)年10月

84
2025/05/26

42fe78d8a538さんの感想

また登るの!?また落ちるよ~。帰りなよ安蘇に… という突っ込みをいれそうになるラスト。解説がほしい。二百十日ってなんぞ…

坊っちゃん

ぼっちゃん

初出:「ホトトギス」1906(明治39)年4月

259
2026/04/05

aea290560620さんの感想

清に会いたいと主人公が思ってたのが叶っていて本当に良かったなと思いました。また、「2階から飛び降りようと思った」では、主人公の性格の大胆さがわかりました。前半の方でも自分の指を切ろうとしていたりして、やっぱ大人になっても性格は変わらないんだなと思いました。とにかくいい作品でした!!!

草枕

くさまくら

初出:「新小説」1906(明治39)年9月

263
2024/08/05

9973a6bbfb35さんの感想

ワイの枕は臭枕。

落第

らくだい

初出:「中学文芸」1906(明治39)年9月15日

12
2025/08/11

艚埜臚羇1941さんの感想

  漱石は 自分が 変人で あると 自覚していた。そこで 変人でも 生き抜く には なくては ならない 仕事 例えば 建築家 であれば ほぼ 頼まざるを 得ない 職業なので その 勉強を 始めていた。その後 ある人から 歴史に 名前の 遺る ような 仕事が よいと 言われたので 英文で 名作を 残して 長く 名声が 刻み 付ける 仕事を 目指した けど 日本語ならば ある程度 想いを 遂げたと 告白 している。漱石は 自己を 切り分けていく 能力が 抜きん 出ている ところも すごいと 感じた。

「自然を写す文章」

「しぜんをうつすぶんしょう」

初出:「新聲」1906(明治39)年11月1日号

3

坊っちやん

ぼっちゃん

初出:「ホトトギス 第九巻第七号」ほとゝぎす発行所、1906(明治39)年4月1日

218
2024/04/15

19双之川喜41さんの感想

 あらすじの つかみとしては 小さい頃から 周りに いる人たちと うまく 付き合うことが 得意とはいえない 青年が 愛媛で 教職につき 悪戦苦闘するという 筋立てである。江戸から 東京へと 急激な 時代の変化に 嫌気がさし もんもんとする 心情を 描いたと 見立てることも 出来よう。漱石は 愛情の 不変性を 読み手に 伝えたかったのかもしれない。物語の 背景として 松山市の 旧制中学校が 重要な 役割を負う。いまだに 熱血青年教師ものの 原形と なっているような ふしは あるようにも 感じた。方言が なんとも 心地好い。

『文学論』序

『ぶんがくろん』じょ

初出:「読売新聞」1906(明治39)年11月4日

23
2021/12/26

阿波のケンさん36さんの感想

今は明治のいや日本の大文豪と呼ばれている夏目漱石の若き日の壮絶な悩みが漱石自身の言葉で語られている。

虞美人草

ぐびじんそう

初出:「朝日新聞」1907(明治40)年6~10月

593
2025/09/17

b77caa0f64d6さんの感想

宗近がクソすぎる。なんで他人にえらそうに説教して死なせてまでドヤ顔してんの??クソすぎるだろ

京に着ける夕

きょうにつけるゆうべ

初出:「大阪朝日新聞」1907(明治40)年4月9日~11日

13
2016/08/14

2ae781e1191fさんの感想

正岡子規への追悼エッセイ? 子規と過ごした京都での想い出、親愛の情が文章のそこかしこに感じられた。

野分

のわき

初出:「ホトトギス」1907(明治40)年1月

271
2018/07/03

86907b788e63さんの感想

なかなか面白く読んだのだが、最後、あまりにもあっけない終わり方であった。

入社の辞

にゅうしゃのじ

初出:「朝日新聞」1907(明治40)年5月3日

6
2020/05/04

07859be9c7dbさんの感想

可もなし、不可 もなし

京に着ける夕

きょうにつけるゆうべ

初出:「大阪朝日新聞」1907(明治40)年4月9日~11日

10

文鳥

ぶんちょう

初出:「大阪朝日」1908(明治41)年6月

32
2024/02/22

1e8fb27bb886さんの感想

 仕草についての描写と、伽藍のような書斎、という表現が気に入った。また、ストーリーに関しては、文鳥の美しさ、漱石のずぼらさなどが見えて「笑える」タイプの通俗小説であったと思う。最後のシーン以外は。また、三重吉という人物についての評価も文中を通して変わっていった。それは、漱石が読者にそう読むように仕向けているのだろうか?と考えた。  漱石の美しい文章と笑える話、そして自虐的なところが好きだ。

坑夫

こうふ

初出:「朝日新聞」1908(明治41)年1~4月

405
2020/07/18

吾輩は名無し仔猫であるさんの感想

芸術家漱石の手による前作『虞美人草』から百八十度転換して、今作は江戸っ子漱石による別の「坊ちゃん」の物語。章立てもなしに流れるような文体を最後まで一気に読み通すことを強要されるところは『坊ちゃん』のままである。途中、筆が滑って「坊ちゃん」文体が丸出しになったと思ってクスリと笑うと、立て続けに「江戸っ子」云々と来て、「この主人公はさすがに坊ちゃんみたいな江戸っ子丸出しとは違うだろう」と心配したら、その先に早速、主人公自ら「坊ちゃん」論を打つという調子。荒井某なる青年がふらりと漱石の元に現れ、自分の一風変わった体験を小説の話題として漱石に買って貰い、そのカネで信州に行きたいと語ったところからこの小説が生まれたというのは周知のところである。見知らぬ外来者による小説のアイデアの持ち込みをそう気安く受け付ける漱石とも思えないが、何不自由なく育った青年が、三角関係の煩悶の末に出家奔走、ポン引きに誘われて地獄の三丁目のような鉱山の穴蔵の底まで出掛ける羽目になるその経緯が漱石の関心を引いたものと見られる。早稲田一帯に大きな権勢を振るう名家に生まれながらも誕生時点から複雑な境遇に揉まれ、創設まもない帝大を英才として卒業して政府の指名でイギリス留学に出掛けるまでになっても、その後、文学博士として高名を掲げるでもなく、民間新聞社の社員作家としてこき使われて早死にした漱石らしいところである。 漱石世代における世界文学の流行りに「意識の流れ」というものがある。提唱者はアメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズで、ジェイムズの『宗教的経験の諸相』冒頭で論じられているような近代合理主義の時代における心理学の「医学的唯物論」的傾向に対する批判的立場から始まったものである。時代の名士であったジェイムズの名前は漱石の文章に見られるが、ジェイムズの「意識の流れ」的立場の先例として挙げられるスターンの『トリストラム・シャンディ』も漱石の好んだ作品だった。19世紀半ばから始まったダーウィン時代に世界を覆い尽くした近代合理主義は客観の時代であって、人間心理についても客観主義、つまり「ものの論理」で扱ってしまう傾向が強い。これに対する反動として、つまり客観主義の裏返しとしての主観主義に陥るのではなく(往々にして主観主義なるものは、反論理主義、反合理主義、反理性主義に突き進む)、人間心理というものを「ことの論理」(現象論)から取り扱うのが本来のジェイムズ的姿勢だったと言える。このような立場に立脚して書かれた『抗夫』は、全編が語り手の一人称的心理分析で埋め尽くされている。『抗夫』が、立て板に水の如き一人称で一気に話を突き進める『坊ちゃん』の延長で書かれた作であるとして、一方で本作はそれを一歩先に進めて「意識の流れ」的立場を自覚的に持ち込むことで、新しい試みとなっている。

三四郎

さんしろう

初出:「朝日新聞」1908(明治41)年9月1日~12月29日

447
2026/01/10

b8a0dcd5fce3さんの感想

三四郎の軽快な展開、軽快な文章、漱石のバランス感覚の巧みさを感じられる。

正岡子規

まさおかしき

初出:「ホトトギス」1908(明治41)年9月1日号

10
2022/03/16

3afe7923d6ecさんの感想

最初にこの文章を読んだとき、これが本当に漱石が書いたものなのかと疑った。 第一、軽妙すぎるじゃないか、漱石がこんなにくだけた文章を書くわけがない、という違和感だ。 しかし、少しずつ調べていくうちに、その疑問は氷解した、 単に、自分の先入観と勉強不足から即断してしまっただけで、ごく仲のよかった漱石と子規は、こんなふうな打ち解けたやり取りをしていたらしい。 試みに、漱石全集の書簡集(旧版でいうと14巻だ)を引っ張り出して見てみた。 最初の最初、明治22年8月3日付の子規宛の書簡にこんな軽妙な手紙があった。 《小生等最初は水口屋と申す方に投宿せしに一週間二円にて誠にいやいや雲助同様の御待遇を蒙れり楼上には曽我祐準先生将軍乎として鎮座まします者から拙如き貧乏書生は「パラサイト」同様の有様御憫笑可被下候(中略)どうにもこうにも駿河の国立ったり寝たり又興津、清見の浦は清むとても心はすまぬ浜千鳥啼くより外はなかりしが(ヤ、デン)といふ体裁》 文中の(ヤ、デン)というのは、浄瑠璃語りの合いの手のつもりだろう、書くうちに興がのってきて、文章がリズミカルになつたところで、思わず「ヤ、デン」とみずから合いの手を入れたというわけだ。 寄席好みの子規にしか通じない漱石の最大級の親愛の表出だ。 確か、落語の「三枚起請」の中にも、惚れた女郎から渡された証文が偽物だと分かり、悔しくて泣き言をいう場面で、思わず背後から仲間が「デデン」とチャチャを入れる場面があった。あれだ。 漱石自身がこの随筆の中で書いているが、正岡子規という男は、非常に好き嫌いの激しい人で、滅多に人とは交際などしなかった人だったのだが、なぜか漱石とは気が合った。 それは、ふたりに寄席という共通の趣味があったからだといわれている。 そういうことがあったので、ふたりは、書簡のやり取りでも、こんな感じで寄席の蘊蓄を披露し合って楽しんでいたのだ。 漱石は当初、講談に関心を持っていたのだが、それが徐々に落語へと移っていった。 それは、当時、江戸の流れを受けて硬直化していた落語を、明治の御代に合うように笑いを中核に据えて江戸落語を一新した当代の名人、三遊亭円遊がいたからだといわれる。 そして、もうひとりの名人が二代目柳屋小さんだ。 当時、夏目漱石がどういう落語の演目を聞いていたのか、あれこれ調べているうちに、究極にして衝撃的な「漱石VS落語」のエピソードに遭遇した。 《大正5年(1916)11月21日、漱石は、山田三良夫人繁子から頼まれて、繁子の妹江川久子の結婚披露宴に出席した。 新郎は辰野隆であった。 その日の午前中漱石は、「明暗」の第188回を書き、次の原稿用紙の右肩に189と書いた。 そして、夕刻より夫人とともに築地の精養軒で催された披露宴に出かけた。 披露宴には、三代目小さんが呼ばれていて、余興に「うどんや」を演じた。 荒正人が「漱石研究年表」の補足説明に記しているように、結婚式にちなんだものを選んだものであろう。 屋台を引いて夜の町を「な~べや~きうどぉ~ん」と流して歩くうどん屋が、仕立て屋の太兵衛の娘の婚礼帰りだという酔っぱらいにつかまる場面がはじめにある。 漱石は、小さんの十八番「うどんや」が好きだった。 小宮豊隆の回想によれば、牛込亭で小さんの「うどんや」を聞いて帰ってきた漱石は、酔っぱらいが管を巻くところを自分で繰り返して、笑いだし、止め度がなくなって、仕舞いに顔を真っ赤にしてしまったという。 漱石は、帰宅後、胃の調子が悪くなり、翌日から病床に臥し、容態は次第に悪化して12月9日に死去した。 したがって、小さんの「うどんや」が、漱石が生涯で聞いた最後の落語ということになった。 葬儀は12日に行われ、漱石が若い頃参禅した鎌倉円覚寺の管長釈宗演が導師を勤めた。 ちなみに、釈宗演も落語が好きだったらしい。 彼は、大正8年(1919)11月1日の夜、弟子に落語の本を読ませ、それを聞きながら永眠した。》 漱石が、その生涯にどれだけの数の落語を聞いたのかは不明だが、その生涯の最後に聞いた落語は、最も愛した小さんの「うどんや」だった。

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