青空文庫

「小津安二郎」の作品

小津安二郎

おづやすじろう

生年:1903-12-12没年:1963-12-12

丸之内点景

まるのうちてんけい

‥‥東京の盛り場を巡る‥‥

初出:「東京朝日新聞」1933(昭和8)年4月21日朝刊

3
2022/04/22

cdd6f53e9284さんの感想

小津安二郎が、丸の内界隈の情景を描写している。 あれは、空ショットとかいっただろうか、まるで小津映画の一場面を見ているようだ。 目に映る何気ないこうした風景をスケッチして、撮影のイメージを溜め込んでいたのだろうか。 早朝に神田辺りから野球のユニフォーム姿の若者の一群が、自転車に乗って日比谷方面に向かって颯爽と走りすぎていった。 さて、昭和8年というと、どんな映画がいいだろう。 「東京の女」、それとも名作「出来ごころ」か、いやいや、丸の内が似合う作品といえば、やはりここは田中絹代が主演した「非常線の女」しかないだろう。 まるでハリウッド映画のような小粋なギャング映画だ、 後にも先にも小津安二郎のギャング映画なんて、ちょっと見られないぞ。 この作品で悩めるやくざを繊細に演じたスマートな岡譲二も楽しめる。

車中も亦愉し

しゃちゅうもまたうれし

初出:「話」1937(昭和12)年4月号

5
2018/03/07

青鷺さんの感想

「汽車、電車、バスなどの公衆の交通機関は現代世相の風俗画とも言ふべきで」たしかに小津映画には駅や汽車が印象的に使われてるな。しかし、小津に人間観察されてたら怖い。 (20)

ここが楢山

ここがならやま

〈母を語る〉

初出:「週刊朝日」1958(昭和33)年8月10日号

1
2018/03/07

青鷺さんの感想

かんたんだけどクスッとなるユーモア (19)

映画界・小言幸兵衛

えいがかい・こごとこうべえ

―泥棒しても儲ければよいは困る‼ ―

初出:「文藝春秋 昭和三十三年十一月号」文藝春秋新社、1958(昭和33)年11月1日

17

性格と表情

せいかくとひょうじょう

初出:不明

4
2022/04/28

cdd6f53e9284さんの感想

つい数日前の新聞に理化学研究所のチームが、ロボットの顔の表情を17種類自在に制御できるシステムを開発したという記事が載っていた。 記事によると、シリコン製の顔の裏にワイヤを張り巡らせ、モーターで細かく動かせるようにして人間の顔の筋肉の動きを精密に再現し、目を見開く、口角を上げる、眉を寄せるといった様々な顔の動きを制御できると書いてある。 つまり、微笑んだり、驚いたり、困ったり、恥ずかしがったりの表情を違和感なく作り出せるらしい。 今までのそっくりさんロボットも、ある程度の表情はあったが、なんだかぎこちなくて、わざとらしく見えたのは、やはり、この表情のパターンが少なかったからだが、17種類の表情を持ったロボットだと人間の側も自然に接することが出来るということだ。 ついにそういう時代がきたか、と感心しながらこの記事を読んだのだが、読みながら役者の演技について書かれた小津監督のこの文章を思い出した。 単に喜怒哀楽を表す顔の表情なら、ある程度の訓練を受けた役者だったら容易に作ることが出来るだろうが、しかし、ただ過剰に演じればいいというものではない。 役者として喜怒哀楽そのままでは到底演技とはいえないのであって、その人らしい独自の個性の裏づけがないと、どうしても嘘っぽく見えてしまう。 傑出した俳優とは、その役柄の性格まで掘り下げた独自の表情を自在に表現できる役者のことなのだと。 なるほど、ロボットもやっと17種類の表情を獲得したとはいえ、小津映画に出演できるまでになるのは、まだまだ時間が掛かるということか、なんだか安堵したような、ガッカリしたような変な気持ちだ。 しかし、小津監督のこの「性格と表情」を読み進んでいって、最後の二行のところで引っ掛かった、「ん?」という思いだ。 こうある。 ❮「月は上りぬ」はぜいたくなキャストで撮るつもりだ。五光くらいのキャストでね。「長屋紳士録」はカラスだったからね❯ つまり、次回作のキャストは、もっと多くの華やかなスターを起用するぞと意気込んでいるのだが、しかし、小津監督の実際の次回作は「風の中の牝鷄」1948で、「月は上りぬ」は、監督に挑戦した田中絹代の第二作目の1955年作品となっている。 単に状況の変化があっただけの話かもしれないが、なんか気になるので調べてみた。 話は、日本映画界でトップ女優として君臨した田中絹代から始まる。 かつては可愛らしい娘役で絶大な人気を博してきた田中絹代も年を重ねて40歳となった戦後、若手の台頭に押されて、これといった役にも恵まれず、そろそろ行き詰まりを感じていた時期に、心機一転、ハワイ国際興行の招きで3ヶ月のアメリカ旅行を敢行する。 事件は、帰国した空港に降り立った絹代のイデタチにあった。 緑のサングラス、毛皮のハーフコートに黒手袋、茶と白のアフタヌーンドレスというアメリカンルックで、そのうえ帰朝パレードでは、ご丁寧にも投げキッスまで振りまいたため、いまだ敗戦の傷痕が癒えていなかった国民の顰蹙をかい、「アメション女優」といわれて総叩きにあった。 その後、活路を見いだすべくフリーになって何本かの映画に出たがパッとしなかった。 不評だった作品の中には溝口健二の「お遊さま」と「武蔵野夫人」もあって、戦後の低迷は溝口とて同じことだったのだ。 そして、1952年、ついに溝口健二は、田中絹代のために長い間あたためていた「西鶴一代女」を撮る。 女優として最早あとがない田中絹代は覚悟を決めて、男たちに散々弄ばれ、棄てられて社会の最底辺まで堕ちる老醜をさらす娼婦という難役に果敢に挑戦した。 ヒロインお春の落魄をたどる演技には鬼気迫るものがあると絶賛された作品だったが、国内の興行成績は芳しくなかった。 しかしこれが、ベネチア国際映画祭で監督賞を獲得し、溝口健二の名を一躍世界に知らしめた。 その後も溝口健二·田中絹代のコンビで「雨月物語」「山椒大夫」と世界的なヒットを放つが、その間に事件が起こった。 「月は上りぬ」事件である。 「雨月物語」のあと、主演女優として限界を感じ始めていた田中絹代は、監督への転身を試みる。 日本映画監督協会も全面的に助力した。成瀬巳喜男の助監督について学び、木下恵介の助力も得て、第一作品「恋文」は完成し、おおむね好評だった。 しかし、溝口健二は面白くなかった、女優として大成できたのは誰のおかげなのだという気持ちと、あいつに監督など出来るものかという気持だ。 実際、田中絹代に面と向かってこう言った。 「やめたらどうですか。あなたは女優としては日本を代表する人なんだから、監督なんかして傷つくことはありません」と。 第二作目は、監督協会会長の小津安二郎の脚本「月は上りぬ」に決定した。 そこで小津安二郎は、監督協会の理事長である溝口健二に「絹代のことは、よろしく」と電話をした。 溝口健二は、厳しい口調でこう言った。 「絹代のアタマでは、監督は出来ませんよ」 この暴言を聞き知った田中絹代は激怒し、二度と溝口健二との仕事を共にすることはなかった。

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