青空文庫

「野槌の百」の感想

野槌の百

のづちのひゃく

初出:「週刊朝日 夏季特別号」1932(昭和7)年6月1日

吉川英治69

書き出し

一チチ、チチ、と沢千禽の声に、春はまだ、峠はまだ、寒かった。木の芽頃の疎林にすいて見える山々の襞には、あざやかに雪の斑が白い。「あなた。——あなた」お稲は、力なく、前に行く人をよんだ。かの女の十間ほど前を、三五兵衛は黙々と、あるいて行くのだった。振り向いて、棘のある眼が、「なんだ?」と、邪慳にいった。生まれてまだ六月か七月ぐらいな嬰児を背に、つかれた足を、弱々と、引きずって来たお稲には、その十間の

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